輝かしくも、波乱万丈なガブリエル・シャネルの人生は、数奇な世紀を生き抜いた驚くべき運命を詳細に描き出している。
「事実は小説より奇なり」と映画製作者たちはよく言う。ガブリエル・シャネルの一生は映画人たちの想像力からすると、まるで夢が現実となったようなものだ。
ガブリエル・シャネルにしてみれば、「伝説は名声を授ける」といったところだろう。シャネルの辿った道のりや彼女の物語に関連した伝記は40冊以上にのぼる。彼女の人生こそ、大胆さ、数々の愛、波乱、スタイルが刻み込まれた、20世紀を映し出す人生だ。
1883年8月19日に生まれ、貧しい田舎に育ったガブリエルは、幼くして孤児となった。修道女から教育を受け、基礎的な裁縫を学んだ彼女は、20歳で靴下作りのアシスタントとして仕事を得る。刺繍をし、縫い物をするうち、その仕事にうんざりし始めると、彼女はカフェで歌うことで気晴らしをするようになる。優雅な容姿で注目を集め、彼女がステージに立って歌うと観客は大いに喜び、“ココ”という愛称までつけたほどだった。裕福な競馬馬のブリーダーだったエチエンヌ・バルザンは彼女を見つけると、たちまち恋に落ちた。彼を通じてココが知ったのは乗馬の世界。やがてそれが彼女の強力なインスピレーション源となっていく。同時に、彼女が出会ったのは競馬を中心とした上流階級の社交界だった。そこに集う女性たちの帽子は華美過ぎて彼女にとってはミートパイのように見えた。バルザンの仲間のなかには、アーサー・ボーイ・カペルがいた。彼は後に、彼女の人生で最愛の人となる。1919年、カペルはココがパリのカンボン通りに最初の婦人用帽子店を開く際、彼女の背中を押し、必要な出資を行った。ドーヴィル、ビアリッツ、カンヌと、すぐに他の店舗も展開された。シャネルは瞬く間に成功し、ボーイ・カペルからの借金も残らずすぐに返せるまでになった。
若きシャネルは類い稀なるファッションデザイナーだった。アメリカの雑誌が彼女の革新的な創作に迫った際には、拍手の嵐は鳴り止まず、世界中から反響を得た。ボーイ・カペルとの恋愛は、進化を続ける彼女のデザインがマスキュリンなエネルギーを取り入れるきっかけともなった。そこから生まれたデザインは、すぐにアンドロギュノズ的=ユニセックス的と称されるようになる。ココはカペルのズボン、パジャマ、カノティエ(カンカン帽)、ジャージーのシャツから得たヒントをデザインに取り入れていった。他の恋人たちも直接的なインパクトを彼女のデザインに与えている。ロシアの亡命貴族ディミトリ大公からは、典型的なロシアのスモックであるルバシカ、兵士用の毛裏つき外套であるペリス、毛皮、刺繍などのアイディアを入手。英国貴族ウエストミンスター公爵が所有するヨットの乗組員からは、ジャージー素材、金ボタン、白いブレード、ツイードのジャケットなどを使うヒントを得た。
1921年、シャネルは、グラース産ジャスミンのエッセンスを贅沢に用いた最初の香水、シャネル NO5を発表した。この香りは合成香料のアルデヒドを大胆に使った、初めての「抽象的」な香りとしても知られる。この新しい香りは、それまでも、またそれ以降も匹敵するものがないほどの画期的な成功を納めた。
マリリン・モンローは、ベッドでは何を着て寝るのかと訊ねられたとき、きっぱりとこう答えている。
「シャネルのNO°5を、数滴」 |
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ココは、彼女独自のスタイル用語を発するようになり、シャネルの卓越した魅力を構築することになる。向こう見ずだが極上の感性、つまりはスタイル感覚というものを武器に。
1926年に発表されたシャネルの「リトル ブラック ドレス」は、まさに天才のなせる技だ。「女性というのはすべての色について想いをめぐらすものよ、色の欠如ということ以外についてはね。黒はすべてを内包しているの。白もそう。黒と白には、絶対的な美がある。完璧なハーモニーだわ」
1932年、彼女は経済不況に打ちひしがれていたパリで、彼女お気に入りのプラチナとダイヤモンドだけを用いたハイジュエリーコレクションを発表した。お気に入りの宝石について彼女はこう言っている。「ダイヤモンドを選ぶ理由は、最小の粒であっても最高の価値を象徴しているからよ」
シャネルは、同時代を生きた傑物たちとも親しく交際していた。ジャン・コクトーやパブロ・ピカソとは劇場でコラボレートし、イゴール・ストラヴィンスキー、セルゲイ・ディアギレフ、レイモン・ラディゲ、ピエール・ルヴェルディには経済援助も行った。至るところに彼女の姿があった。ヴェニスではミシア・セールをはじめとする友人たちと行動し、そしてもちろんパリでは、ホテル・リッツに居を構えた。彼女は、偶然を全くあてにしない究極のビジネスウーマンだった。彼女の判断は格言のように響き渡る。
「もし、翼を持たずに生まれたとしても、翼が生え揃うのを邪魔したりしないで」
「シャネルのファッションについて語られるのは好きじゃないわ。シャネルはスタイルなの。ファッションは移ろうものだけれど、スタイルは残るものだもの」
1939年、彼女はクチュール店を閉じる。そして、71歳となった1954年の2月5日に行われた記念すべきファッションショーで、ファッション界の最前線に戻ってきた。これは、2度目の革命だった。ツイードのスーツ、キルティング加工した革で作られた“2.55”バッグ、カメリア、バイカラーシューズなどを定番化させた。
そして再び、一度は彼女なしでもやっていると思われたファッション界の女帝となった。彼女は男性用フレグランス“Pour Monsieur(プール
ムッシュウ)”を発表。20世紀における最も影響力のあるデザイナーとして、ダラスでファッション界のオスカーをも受賞した。
彼女の全人生、彼女の愛、彼女のスタイルは、彼女の作品の中にあらわれている。彼女は壁を作らず、あらゆるものに繋がっていた。そんな彼女のファションは、彼女自身の人生、彼女が学び取った知識、彼女が手にした発見に色濃く着色されていた。彼女が経験したスポーツの数々は彼女の服にみられるシンプルさとして投影されている。贈り物として受け取ったジュエリーは、旅、出会い、彼女が深めた友情、彼女が信じた迷信などと同様に彼女のデザインに影響を与えた。あらゆるものを再考していったからこそ、永続性のある多くの功績を、彼女が生きた時代を雄弁に物語る作品を遺したのだ。
「私は、四半世紀にわたってファッションを創り上げたわ。なぜかって? 私が自分の生きた時代についてどう語ればいいのか知っていたからよ」とココ・シャネルは言った。彼女がこの世を去ったのは1971年の1月10日。春夏のオートクチュールコレクションを発表する、わずか数日前のことだった。世界は、20世紀で最も影響力のあったこの女性に別れを告げた。だが、偉大なるシャネルのブランドの歴史は決して閉じられることはない。
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