特にバレエに興味がある人でなくても、バレエ・リュスという言葉はどこかで耳にした覚えがある――それは、ファッショナブルを自認する女性でなくても、誰もがシャネルの名前を知っているのと同じことかもしれない。1909年にパリで旗揚げしてセンセーションを巻き起こし、20年間にわたってバレエ・リュス、すなわちロシア・バレエ団の名前で活動した彼らは、一言でいえば天才集団、超一流のアーティスト集団だった。舞台美術はピカソ、マティス、ルオー、ミロ、ローランサンが描き、音楽はプロコフィエフやリヒャルト・シュトラウスに委託。ヴォードワイエやコクトーの綴った台本で、当時世界一の盛名を誇ったサンクトペテルブルクのロシア帝室バレエ団出身のパヴロワやカルサヴィナらのスターが踊る。
いったい、そのようなコラボレーションが可能なのかと思うような名前が並ぶが、一つの芸術ジャンルに、長い歴史の中でも稀にしか訪れないような高揚感や力が宿ったときには、他のジャンルを巻き込み、社会全体にも影響を及ぼして、奇跡のような実りがもたらされるものである。バレエ・リュスの活動は、まさしくそれにあたるものだった。
19世紀半ばまでのロマン主義の隆盛の後、芸術的にはすっかり衰退していたパリのバレエ界が忘れていた高雅な芸術性に加え、ヨーロッパがまだ知らなかったロシア辺境その他のエキゾティシズムと力強い男性舞踊を前面に打ち出し、たちまちのうちに社交界の話題をさらう。《シェヘラザード》の極彩色のハーレム・パンツやターバンは、魅惑のまなざしを実現する青いアイシャドウとともに流行となって、ペールトーンに彩られたベル・エポックのファッションを一新する。バレエ・リュスの新作の発表は常に大きな話題、いや、単に話題と呼ぶにとどまらない「事件」に、往々にしてなったのである。
強烈な個性や自己主張をもった芸術家たちを束ね、海千山千の興行の世界を才覚と権謀術数とハッタリ、そして個人的な魅力で巧みに泳ぎまわったのが、同団の主宰者セルジュ(セルゲイ)・ディアギレフ。ロシア貴族の家柄に生まれ、美術にも音楽にも手を染めたが自らは芸術家とならず、代りに誘蛾灯のように自分の周りに傑出した才能を集め、彼らを創造に向かわせた天才プロデューサーである。美食家で美しい男性も愛し、前髪の一房の白髪のせいで親しい人々からは“チンチラ”と呼ばれた。1929年に糖尿病を悪くしてヴェニスで亡くなるまでに座付きの振付家は彼の寵愛の変遷に従って何人も交代したが、対照的に変わらぬ信頼を寄せられ、バレエ・リュスの活動に深く関わったのが、イゴール・ストラヴィンスキーである。二人はかつて作曲をリムスキー=コルサコフに学んだ兄弟弟子の間柄でもあった。そして、師の曲を用いた、《シェヘラザード》がバレエ・リュスの初期のヒット作の一つだったことは、先に触れたとおりである。
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チャイコフスキーが19世紀末に《白鳥の湖》《眠れる森の美女》《くるみ割り人形》の三大バレエを書いたように、ストラヴィンスキーは20世紀初頭に《火の鳥》《ペトルーシュカ》、そして《春の祭典》を書いた。ロシアの土俗性や原初的な激しい力を前面に打ち出したプリミティヴィズムがこの時期の特徴だが、後には調和的な様式美と格調を旨とする新古典主義へと移行し、バレエ・リュス最後期の1928年には《ミューズの神を率いるアポロ》のような名曲も残している。さらに、やがてアメリカにわたってからは、セリー=無諧調音楽へと関心を移し、これもバレエ・リュスゆかりの亡命ロシア人仲間で《ミューズの神を率いるアポロ》の振付家でもあったジョージ・バランシンと、長きにわたる協力関係を育んでいった。
「私を驚かせてくれ」とは、常に芸術に新奇を求め、話題になることによってホンモノの価値を見せつけようとしたディアギレフのモットーだったが、20年にわたって彼を驚かせつづけたのは、もしかするとストラヴィンスキーひとりだったというべきなのかもしれない。それはつまり、バレエ・リュスの精神をもっともよく体現するのは、ストラヴィンスキーの音楽ではないかということでもある。ディアギレフがもっと長生きしていれば、その生涯にわたってストラヴィンスキーには驚かされ、狂喜することを止めなかったに違いない。
1913年、パリのシャンゼリゼ劇場において初演された《春の祭典》は、そのストラヴィンスキーの最高傑作の一つであり、ディアギレフが仕掛けた「事件」の中でも最大級のものである。ひっきりなしに拍子の変わる複雑なリズムに、およそ人の想像するバレエの美からはかけ離れた動き。ダンサーたちが内輪に回した両足でうなだれて立ち、けいれんするように細かく全身を震わせる様子は、本編にも見られるとおり、初日の上演途中からのブーイングや野次、ブラボーの交錯(ディアギレフが招き入れたサクラも、多数含まれていた)を巻き起こした。
1920年、ディアギレフは《春の祭典》の再演を思い立つ。ストラヴィンスキーはより大編成のオーケストラ向けに楽譜に手を入れ、振付には当時ディアギレフの元で活躍していたレオニード・マシーン(ミャーシン)が取り組むが、シャネルの名前がバレエ・リュスとの関わりの中で大きく語られるようになるのは、ここからである。資金の調達に難儀するディアギレフに、匿名を条件にぽんと30万フランを提供したのが、彼女だった。シャネルはその後、1924年には《青汽車》
で初めてバレエ衣装を手がけ、彼女のオートクチュールをそのまま舞台に乗せたかのようなスポーティなリゾート・ウェアや水着で評判を取り、ヒロインの被った黒いスエードの帽子を流行させた。また先述の《アポロ》でも作品にふさわしいギリシア風の衣装を考案し、さらには資金面でも援助した。そして、死の直前のディアギレフをヴェニスに見舞ってもいる。世紀のクチュリエは、バレエ団の最後の10年ほどの偉大なるコラボレーターであり、パトロンでもあったのである。 |
キリル綴りでИ́ горь Фёдорович Страви́нский (発音はイーゴリ・ストラヴィンスキイ)。1882年6月12日サンクトペテルブルク生まれ。1902年よりリムスキー=コルサコフに作曲法とオーケストレーションを学ぶ。06年エカチェリーナ・ノセンコ(=カトリーヌ・ストラヴィンスキー)と結婚。その後、4人の子供をもうける。
08年《花火》がバレエ・リュスの主宰者ディアギレフに認められ、10年パリ・オペラ座のバレエ・リュス公演のためにバレエ《火の鳥》を作曲し、評判となる。続いてシャトレ劇場で《ペトルーシュカ》を公演し、これまた成功となる。しかし13年にシャンゼリゼ劇場で初演した《春の祭典》の斬新さで場内は騒然となる。翌年のオペラ《ナイチンゲール》をオペラ座で発表したが、その後、第一次世界大戦によりスイスに退避。当地で出会ったラミュの台本で音楽劇《兵士の物語》を作曲し、18年ローザンヌで初演。更にピアノ曲《五つのやさしい小品》(19)なども発表。 |
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パリに戻って、20年パリ・オペラ座で《プルチネッラ》をピカソのデザイン、レオニード・マシーン振付けで初演。以後、《きつね》(22)、《結婚》(23)などを発表。21年には《春の祭典》改訂版。以後、バロックや古典の研究も始めて、新古典主義時代に突入し、協奏曲、室内楽などにも取り組むと共にオペラ《マヴラ》(21)、バレエ《ミューズを率いるアポロ》(28/初演はワシントン)、《妖精のくちづけ》(28)、オラトリオ《エディプス王》(29)、メロドラマ《ペルセフォーヌ》(34)などを意欲的に作曲。また、36年にはNYメトロポリタン歌劇場の委託でバレエ《カルタ遊び》を作曲した。
38年、長女が病死し、翌年に母と妻を失った後、第二次世界大戦の危険を回避し、アメリカに亡命。シカゴ、ボストン、NYなどで自らの指揮で公演。ジャズなどの影響も受けた。戦後、47年に遂に《春の祭典》の新校訂版を公演。続いて《オルフェウス》(47)、《アゴン》(57)といったバレエ作品も発表。また、ヴェネツィアのフェニーチェ歌劇場の委託でオペラ《放蕩者のなりゆき》も発表した。59年には来日も果たす。62年には祖国の地を48年ぶりに踏んだ。1971年4月6日、NYで死去。享年89歳。 |